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2004年06月26日

日本語訳と映像化の問題

テレビで映画の「ハリーポッターと賢者の石」をやってました。思わず見てしまいましたが、どうも日本語吹き替えに違和感が生じてしまって、途中からは英語版で見てしまいました。勿論、ビデオやDVDと違って字幕は無し。台詞の細かいところはわからなかったけれども、原作は何回も読んでいるし、ビデオも見たことがあるので大体の筋はわかりました、多分。

なぜ、日本語吹き替え版に違和感が生じたのかを考えてみました。
自分の中で原作を読んだときに構築された、自分なりのイメージが映像や音声(=日本語)で塗り替えられるのが嫌だというのがあります。「ハリーポッター」の場合は、映像や音楽はかなり原作のイメージに忠実…というか、私が原作を読んでイメージしたものと近いものになっているのですが、どうもハリーが『日本語』をしゃべってしまうとどうも違和感が生じます。そのあたりは、自分のイメージと映画(日本語吹き替え)の齟齬でしょう。

あるいは、現在上映中の「ハリーポッターとアズカバンの囚人」でも、冒頭「夜の騎士バス(Knight bus)」という乗り物が登場するけれども、これは英語版だと"Knight(騎士)"と"Night(夜)"の言葉遊びだということは判るんだけど、それを日本語に翻訳すると、「夜の騎士バス」というかなりこじつけた訳にせざるを得なくて、そのあたりにかなり翻訳の方の苦労は感じられるんだけど、やはり違和感を感じてしまいます。うーん、やっぱりこれは英語で原文を読んだほうが更に自分の中のイメージを作るにはいいんだろうかとか思ったりもして…。しかし、本屋で英語版の原作を手にとって自分の英語力の無さにあきらめました。たまに、学生時代にもっと英語を勉強しておけばよかった、と思うのはこんなときです。

自分の中のイメージと映像や音声化(つまりは映画化やアニメ化など)されたものの齟齬を恐れるのは、その原作のイメージを自分が大切にしていればなおさら、という感じです。
たとえば、私は小野不由美の「十二国記」シリーズは非常に気に入っていて、本のほうは何度も読み込んでいるのですが、アニメの方は見ることができませんでした。ちょっとチャンネルを合わせてみたことがあったのですが、見始めて30秒もしないうちにどうもむずかゆくなってチャンネルを変えてしまいました。
作者が監修しているとはいえ、やっぱり自分の中で出来上がっている十二国記の世界観や登場人物のイメージを崩されるのが嫌だったのです。同じ理由で、何度か映像化(映画化、あるいはアニメ化)されている「赤毛のアン」もどうも自分のイメージにぴったり来るものがありません。
原作を読んでイメージする「アン」は人それぞれだし、それは必ずしも皆が一致するものではないので、当たり前といえば当たり前。
本を読んで、それぞれの人がそれぞれにその世界を想像するという作業は非常に大切だと思うので、昨今のすぐ映像化して、同じイメージに(例えば“ハリーポッター”=ラトクリフ君)で統一されてしまうことに少し疑問をおぼえています。映像や音声の方が文章を読むより手っ取り早く理解できるけれど、文章を読みながら理解して、頭の中で世界を構築することがおろそかになってしまう気がして。
同じ理由で、演劇集団キャラメルボックスの今年のクリスマス公演が北村薫原作の「スキップ」だということにもちょっと、(…いやかなり)不安を感じる今日この頃です。原作が大好きなだけに。

2004年06月26日 20:36

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